Story.04突如、訪れた
アイデンティティ・クライシス

強烈な醒めが訪れ、自分の居場所を失うような感覚に陥る

毎日が急に虚しく感じ、
築き上げた全てが作り物に思える

襲ってきた「醒めてしまった」感覚

何かきっかけの出来事があったわけでもない。
日常の日々を過ごしていくなかで、それは突如としてやってきました。

今まで情熱を持って取り組んでいた、SDGsや組織開発、人材育成などの仕事に対して、急にエネルギーが湧かなくなった。それはメンタルダウンというよりも、醒めてしまった感覚が襲ってきて、虚しくなっていくような。

気合いを入れようとしても、体がそれにこたえてくれない。
エネルギーが湧かないから仕事の効率は落ちる。新しいことを考えようとしても何も思い浮かばない。
パフォーマンスが日々低下していくのを肌身に感じて、必死に自分を鼓舞しようとしても、醒めた感覚が減ることもなく、今までやってきたことが虚しくなっていく毎日。

浮き上がってきた2つのメッセージ
①働かせるための支援をしていた?

そうしたなかで少しずつ虚しさの解像度が高まってきて、2つのメッセージが自分に突き刺さってくる。
「働き方だ、生き方だ、幸せだ、と言っても、そのときの社会のストーリーに従わされているだけに過ぎない」、こんな想いが自分のなかから湧き上がってくるようになった。

これまで組織開発などでも「働きがい」「レジリエンス」などといったテーマにも取り組んできたが、結局のところ、レジリエンスや働きがいを高めて、より今の環境で気分良く働かせるための栄養ドリンクを提供していただけに過ぎなかったのではないか。

環境が厳しくなってくるからこそ、心地よいメッセージを利用して、働かせるための支援をしていたのではないか。そうやって、過酷な状況であろうとも人が働かせるための環境作りに加担していたのではないか。
これまで取り組んできたことが、よかれと思ってたのに、そうしたことを助長してきたことに気づいたことの虚しさ。

②自分の信念や価値観さえも、
社会ストーリーによりねつ造されたもの?

そして、もう一つのメッセージは、
「今まで自分が積み上げてきた信念や自分の価値観すらも、しょせん粘土細工に過ぎない」ということ。
これまでの自分の人生の歩みを振り返ったとき、その時々の自分の価値観、信念がいかに周りの影響を受けて構築させているかに気づいてしまった。

例えば幸せに働くといった自分の価値観も、そうすることで働きがいが増して人生の満足度が上がるからだといったその当時の書籍であったり、ニュースであったり。そうしたものに影響されて、自分はそれが大事だと思い込んでしまっていた。

社会のストーリーに左右されて価値観や感情すらも形成されている「私」とは一体なんなのか?本当に「私」がやりたいこと、実現したいことなのか? それとも、「今は自律的にいきる時代が」「これからは個人の時代だ」といった社会のストーリーに流され、支配されているだけに過ぎないのではないか?

今まで明確に「私の信念としてやりたいこと」と思っていたことが、社会ストーリーによって作り上げられた、ねつ造されたものかもしれないと気づいたとき、 これまでの自分が積み上げてきたものに虚しさを感じ、自分を支える地面がガラガラと崩れていく感覚にみまわれた。

一度ドロドロに溶けること
を受け入れる

どうにもならない虚しさ

今までの自分の世界観から放り出されて、世界から自分の居場所を失うような感覚に陥っていく。そして、世界から放り出された先には、何も分からない状態。

それはまるで海に溺れて沈みそうになるような状態に陥っていく。
沈まないように必死に何かを掴んで浮こうとするけど、何も掴むことはできない。沈まないように必死にジタバタし続けるが、どう頑張ってもエネルギーが湧かない、虚しさを抑えられない、どうにもならない。

誰かに助けを求めて相談するが、誰にもこの感覚を理解してもらえない。誰かに相談すればするほどに、分かってもらえない、理解されないことを実感し、世界で独りになっていく感覚に苦しめられ、溺れそうな感覚が続いていく。

溺れそうになっていることは、悪いことではない

このときに支えになってくれたのが、この時期に学んでいた成人発達理論であった。
人の一生涯の成長を扱う成人発達理論が、今の自分が陥っている状況を定義していて、実存的危機の段階にあることがわかった。

それは、青虫がサナギになっていき、その後の蝶々に変わっていく段階で、一度サナギの中でどろどろに液状化して仮死状態を迎えるといった段階である。

自分が溺れそうになって沈みそうというのは、サナギのなかでどろどろに液状化している段階で決して悲観するものではなく、むしろ次へのフェーズに進むために大切なことなんだということを知ることができた。

必死に沈みそうになるのに抵抗していたが、溺れそうになっているのは悪いことではないんだということを知ったことで安心感が生まれ、ジタバタするのをやめたらぷかーっと浮かんでそのままでいられることに気づいた。

新しい自分を迎えるために

サナギのなかで液状化していくことを受け入れた。
そして自分の中で今まで頑張ってきたこと、信念、価値観はどろどろに溶けていった。

次は蝶々になる段階だが、地面を動いていた青虫は、姿形も違い空も飛べることができる蝶々になることは知るよしもないだろうし、想像もできないだろう。だから、サナギでドロドロに液状化したあと、蝶々という形が降り立ってきて、そして成虫になるのだろう。

だから今の自分にできることは、どろどろに溶かしていって、そして蝶々の形が降り立ってくることを待つことなんだ。社会ストーリーのなかで活躍している、イキイキしている自分ではなく、そうしたものを溶かしていって、新しい自分を迎え入れるために。

あなたは、何を受け入れますか?