Story.01自分は何のために努力して
働いてきたのだろう?

多くの苦しみに触れて、大切にしたいことの覚悟が決まった

苦難の中からスタート

胸を張って言えない就職先

キャリアのスタートは東京電力株式会社。高校卒業後、18歳で入社。
私の社会人生活は、入社時から大きな苦難の中から始まることとなった。

入社する前年に、原子力発電所の大規模なデータ改ざんの不祥事が発覚し、連日、メディアに取り上げられ、会社の信頼は失墜して社会の裏切り者という雰囲気。
私の地元新潟では、データ改ざんが発覚した発電所があったため、地域からは厳しい目が東京電力に向けられており、とても「東京電力に入社した」なんて言えやしない。

この会社に勤めているということが周りに知られるのが怖くて、「どこの会社に就職したの?」と聞かれても、「そこそこの大手に就職したよ」とぼかしていて、自分が入社した会社のことで胸をはることのできない、私の社会人人生のスタートであった。

環境をどう捉えるかで、
見える世界が変わる

できることを精一杯やろう

群馬の営業事業所の受付対応から始まり、不祥事により信頼は失墜し、原子力発電所は全て停止によって節電の夏がきて、毎日クレームの対応が続いていた。仕事に誇りを持てず、モチベーションの維持が難しかった。

それでも、起きたことや、環境に意識を向けていったって、今日も明日も何も変わらない。それならば、自分ができる範囲のことを精一杯やろう。

目の前のお客さまを笑顔にする、クレームのときの眉間のしわを1本でも減らす、そうした意識で日々少しでも良くしたいと行動を続け、様々な業務改善を進めて表彰もされたり、周りからも評価されて自信をつけていった2年間を過ごした。

自分自身で考える大切さ

そして、20歳のときに地元新潟に異動となり、柏崎刈羽原子力発電所で未経験の仕事で全くやり方も分からない業務を任されていった。

このときの上司が、私のビジネスパーソンの基礎を作ってくれた。 過去の資料や他の人に聞きながら仕事を進めていこうとしても、上司から「前例がとか、先輩がどう言っているかなんて関係ない、誰かじゃなくてお前はどう思っているんだ」と毎日突きつけられ、逃げ場のない苦しさのなかでもがき続けた日々。

夢の中でも怒られていて、会社に行くのが憂うつな日々を過ごしていたが、それが自分で考える癖を作ることになった。そしてそれは、すぐに活かされることになる。

順調にキャリアを構築

翌年に新潟県中越沖地震の被災を経験し、世界初の大きな直下地震が原子力発電所を襲う復旧対応に向き合う中で、世界中でも前例がない様々な問題に対して、自ら考え続けて迷いながらも復旧対応に奔走することができ、その後は本社で重要な職務を担ったりと、順調にキャリアを構築していた。

どんな仕事も最初は苦しいけど、知識がついて、見える世界が広がれば、楽しみ方が見つかっていく。環境がどうではなくて、自分がその環境をどう捉え、そしてどう楽しむかをいつも大事に歩んできた8年間。重要なミッションを任され、高い評価もされて、満足いくキャリアを歩めていた。

本当の憎しみを
身を持って知った

311、損害賠償を担当

そんな中での2011.3.11の東北大震災。
津波に加え、福島原子力事故により、数十万人がふるさとを追われ、強制的に避難生活がスタートすることに。当時26歳であった私は、福島の隣県である新潟県等の北陸地方の原子力損害賠償を第一線で対応することになり、震災当初の体育館をはじめとした避難所周りが始まった。

(参考)
26歳で「3.11」の損害賠償を担当 東電社員が語る、自分の仕事に誇りを取り戻すまで

恐怖で膝が震えた避難所周り

最初に避難所にお詫びのためにいったのは4月末。
事故が発生し、1ヶ月半以上も体育館での避難を余儀なくされ、一体いつまでこの日が続くのか全く見えない日々を過ごさざるを得ない福島の方達が、東京電力に対してどう思っているかなど容易に想像できる。

今でも鮮明に覚えている。最初の避難所に向かい、駐車場についたとき、恐怖で膝は震えて立つのも困難になったことを。それでも、踏ん張って、400人近い避難した方たちが待つ体育館に入り、その目を見て、本当の憎しみとはどういうものかを身をもって知った。

多くの厳しい声に向き合う。でもそれは紛れもない真実そのもの。
「一体いつになったら帰れるのか、
この闇のトンネルをただひたすら歩く苦しみがわかるか?」
「子供がイキイキと勉強できるように新築で楽しく学べる部屋を作ったのに、なぜ今段ボール箱の上で勉強しないとなの?」
「仕事を、夢を、生きがいを失って一体何が残るんだ?」
「私たちが人間であることを忘れないでほしい」

なんで?どうして?一体何をしたっていうの?ねぇ教えてよ、、、
深い苦しみ、悲しみ、痛みに満ちていた。

人の温かさに触れ、自分が情けなくなる

でも、数時間たって会場をあとにするときに、多くの方が優しい言葉をかけてくれる。
「来てくれてありがとう」「体を大切にして」「貴方が悪いわけではない」と。。。

その優しい言葉が本当に辛かった。そして何よりも自分が情けなくなった。
目の前にいる方達がどれほど優しく、温かい心の持ち主だということに気づかず、恐怖の対象、攻撃してくる対象として見てしまった自分自身を。
本当に温かい心を持っているのに、その人の人生では絶対に口にしないであろう厳しい言葉が出ざるをえないくらい追い込んで苦しめている現実。
多くの人たちの人生を壊した現実。

「自分は8年間、必死に努力してきたし評価もされてきた。その努力の結果がこれなのか?」「これほど多くの人を苦しめるために、不幸にするために自分は8年間頑張ってきたのだろうか?」

社員とその家族
15万人を幸せにする
会社を目指して

働くことは、人を苦しめること?

周りの好きな会社の仲間達も傷ついて苦しんでいる。
「働く先の人を苦しめ、働いている人も苦しめている、働くって一体何なんだ?」
この気持ちがずっと自分のなかに渦巻く日々。働くって苦しめること?目の前の厳しい現実がそうであることを証明している。

苦しみを感じたのは、このときだけではなかった。数年前にも耐えがたい苦しみを感じていたのだ。
大切な友人が、いつもと同じように自分と話した数日後、自殺をして亡くなった。
「もしあの時に違う言葉をかけていれば」「なぜ苦しんでいることに気づけなかったのか」、そう思うと悔しくて辛くて、救うことができなかった後悔。

その経験があったのに、賠償で向き合っていた方が自分と話した数日後に自殺することがあった。数年前に苦しみを感じていたにも関わらず、自分はあれから何も進めていない無力さ。また同じ後悔を生み出してしまった現実。

どんなに悲しんでも、返ってこない命

一体これまで何をしてきたのだろう?
本当に苦しんでいることに気づかず、救うことができたかもしれない大切な命は手からこぼれ落ちて。どんなに泣こうが、悲しもうが、胸が張り裂ける思いをしようが、もうその命は返ってこない。

悔しい。悔しい。

ほんの僅かでも、この現実が引き起こされることを防げる可能性があったならば。この悲しみが引き起こされる現実を認めたくない。
「しょうがない」「自分にできることはなかった」なんて思いたくもない!
0.0001%でも、この現実を防げる可能性があるなら、自分はその可能性から逃げたくない。

自分の内側から強い気持ちが湧き上がってきた。
「働くということは誰かを幸せにすることであり、そして働く人も幸せになることだ」と。
その後、全社の人事戦略の責任を担う人事部署に異動となり、人事戦略、制度、働き方改革などの主担当となったことで、この想いを実現するために走り続けた。

社員3万人、さらにはその家族を含めた15万人を幸せにできる会社にしたい。そしてその想いは会社の枠を超えて、数十社巻き込んで数百人集まるコミュニティを複数立ち上げ、働くの可能性を切り拓く活動を進め、社外にも多くの仲間ができていった。

絶対に「働く=幸せにする」を実現するんだ

ただ、このような活動を進めていくなかでも、"働く"が生み出す悲しい出来事はなくならない。ある事業所で社員が自殺することがあった。人事として社員を幸せにすると言っておきながらそれを防げなかった現実に向き合うため、特別に葬儀に参列させてもらえた。

無念の思いが場を包み込んでいる中で、小さな男の子が、
「ねぇなんでパパはもう起きないの?」
「ねぇなんでパパともう遊んじゃダメなの?」
「ねぇ教えてよ」と泣きながら叫んでいる。

このとき、自分にも小さな娘がおり、その子の姿と悲痛な叫びを聴き、自分のなかで強い決意が生まれる。「絶対に"働く"、を幸せにする。青臭いとバカにされようと、泥にまみれようとも、そんなことは不可能だと言われようが、絶対に実現するんだ!」

理屈じゃない、綺麗事なんて言葉で片付けたくない。理想なんて言葉で逃げたくもない。 何人もの辛い死に接してきたからこそ、そのことでどれだけ深い悲しみと痛みが多くの人に刻まれるかを見てきたからこそ、あの現実がもう一度引き起こされることを、自分は許すことはできない。

もう二度と、あの時の苦しみや悲しみが、誰にも起きないように。

あなたは、何のために働いていますか?